『破滅へのカウントダウン』に刻まれた“生存への本能”
新作のリリースも目前に控え、これまでに発表した15枚ものスタジオ・アルバムのどれもで最高水準のスラッシュ・ チューンを聴かせているメガデスだが、やはり最も知名度、そして人気の高い作品と言えば、1992年にドロップされた『破滅へのカウントダウン』だろう。
ロック・シーン世代交代過渡期のアルバムであるが、本作があるからこそ、メガデスは今もって現役であり続け、そして鋭利なスラッシュをプレイし続けられているとも言えるのでは。リリースから30年が経過した今、デイヴ・ムステインの発言とともに、『破滅へのカウントダウン』を取り巻いた状況を見つめ直してみたい。
Interpretation by Tommy Morly
俺はラッキーなことに、
ドラッグと酒をやりまくっても、
クソみたいにはならずに済んだんだ。
メガデスは、最高潮に達した状態で90年代に突入した。
ただし、結成メンバーであるデイヴ・ムステインとデイヴィッド“ジュニア”エレフソンにとってその表現は比喩的であり、幸か不幸か文字どおりとはならなかった。
当時、両者はともに重症のドラッグ中毒に陥り、衰弱し切っていた。1985年のデビュー・アルバム(『キリング・イズ・マイ・ビジネス』)制作時に割り当てられた予算の半分をヘロインやコカインに費やしていたことを、1988年の夏には“すべての始まりで、大きな問題”として扱うようになっていた。
ドニントンで行なわれた《モンスターズ・ オブ・ロック》でアイアン・メイデンがバンド史上初めてヘッドライナーを務めた1988年8月20日、メガデスはその前座として、自分たちにとって最多となる約11万人のメタルヘッズを前にしたパフォーマンスがブッキングされていた。しかし、メガデスは恥じるべきほどに衰弱した状態で演奏し、エレフソンは最悪なまでに中毒に侵されていた。マネージメントはメイデンと周る1週間ほどのヨーロッパでのスタジアム・クラスのショウを取りつけていたが、バンドには即座に帰宅へのフライトが手配され、ムステインとエレフソンをリハビリ施設へと直行させた。
1992年の『Q マガジン』のインタビューにて、ムステインは次のように語っている。“俺はラッキーなことに、ドラッグと酒をやりまくっても、クソみたいにはならずに済んだんだ。俺は5年ほど、毎日500ドルをコカインとヘロインに使っていたから。本当に毎日だったよ。俺の愛する人たちは、俺が抜け殻になるのを見ていたんだ”。
しかし1990年になり、ギタリストにマーティ・フリードマン、ドラマーにニック・メンザを迎え集中力を取り戻したバンドは『ラスト・イン・ピース』をレコーディング。メガデスは再び勢いを得て、上昇気流に乗った。
4枚目のアルバムが投下される2日前、バンドは旧知の仲であるスレイヤーを共同ヘッドライナーに迎え、野望に満ちたアリーナ・ツアーをヨーロッパで開始する。
テスタメントとスイサイダル・テンデンシーズをアンダーカードに据えて開催した3週間のツアーは《クラッシュ・オブ・ザ・タイタンズ》と銘打たれ、これは4バンドにとって成功の味を噛み締める初めての機会となった。
“《クラッシュ・オブ・ザ・タイタンズ》は、 メガデスにとってかなり戦略的なものだった。「崩壊してラリっていて、みっともない姿」というメガデスのイメージから抜け出すための足掛かりとなっていった。とはいっても俺らはすでに1988〜89年には、自分たちだけでアリーナを埋めることができるバンドになっていたけどさ”。
また“『ラスト・イン・ピース』は頭がハッキリした状態で、明確な野望を抱いて作った初めてのアルバムでもあった。1990年当時に俺らがいた場所を示すいい機会で、俺らはフレッシュな状態でスレイヤーとともに歩んでいったから。翌年の夏の終わりに向かうに連れて、俺らは自分たちだけでライヴを するようになっていき、同時にどんどん高望みをするようになっていったよ”とエレフソンは語ってくれた。
そして機は熟す。メガデスは1990年後半から91年初頭にかけてツアーを重ね、ジューダス・プリーストとのライヴや、2 度目の《ロック・イン・リオ》フェスティバルへの出演もこなす。特にリオではガンズ・アンド・ローゼズをトリに迎え、10万人の観客を前にプレイ。
また同年夏には2度目の《クラッシュ・オブ・ザ・タイタンズ》がアナウンスされ、同胞にしてスラッシュの開拓者のひとりアンスラックスが3つ目のヘッドライナーとして加わった。また、若きシアトルのバンドであったアリス・イン・チェインズが、当時ラジオでヒットしていた「マン・イン・ザ・ボックス」を含むデビュー・アルバム『フェイスリフト』のプロモーションを兼ねてオープニング・アクトを務めた。信念を持った新たな音楽メディアの台頭を察知しながら、メガデスは精力的に活動を続けたのだった。
“毎日新たな街にやってきては楽屋に入り、『破滅へのカウントダウン』に入ることになるであろう楽曲を書いていたよ。ロン・ラフィットは俺らにとって恐怖のマネージャーってところで、彼は(ロサンゼルス)レイカーズのパット・ライリー監督を崇拝していたんで、チームのためにどうやって才能を発揮させるかにすべての力を注いでいた。当時バンドのなかで生まれ始めていた素晴らしさを定着させるために、俺らが必要としているものがすべて手の届く場所にあるよう細心の注意を払っていたから。『ラスト・イン・ピース』の次のアルバムは大きなものになるってことはわかっていて、 黙っていてもそれは感じられていたよ” とエレフソンは回想する。
◎続きは『METAL HAMMER JAPAN Vol.10』 でどうぞ